留学生が書いた短編小説「金魚」

投稿者 朴柘盈(韓国)イーストウエスト日本語学校
2008年7月11日投稿

『金魚』   朴柘盈(パク ジャヨン)

 「いつも目が突き出てる理由を知りたくない?」
 「いや。別に?」

 手に入るぐらいの小さなビニール袋の中にいる金魚を、じっとみつめながら彼女が話し始めた。彼女がいきなり問いかけてくるのは、いつものことだ。驚くようなことではないのだが、俺が次の言葉を選んでいる最中に、人の答えなんか構わないように、独り言みたいに彼女は話を続けた。

 「遠くない昔、愛し合う二人がいました」
 「へえ」
 「女は、愛されなかった自分を愛するその男に一生をあげたいと、男はこの女なら一生をあげてもいいと、それぞれの心で決めていました」
 「いいんじゃないか」
 「女には悪い癖がありました。それは男に逢うたび、見るたび、話すたびに泣くのです」

 「逢えて嬉しいから?」
 「ううん、逢った後のさよならがこわくて」
 「……ばっかみてぇ」
 「ほんっと。バカみたい」

 下駄の音が早くなり、彼女の足も速くなった。人波の中で彼女を見失うまいと追いかけたが、彼女の姿が見えなくなった。すると、後ろから彼女が俺の袖を捕まえた。

 もう帰ろうと俺が文句を言ったら、彼女は素直に頷いた。俺たちは帰ることにした。近道の河沿いの道で、前を行く彼女の背中から、まだまだ終わらないあの物語の続きが流れてきた。

 「男と女が付き合い始めたきっかけは、自慢の黒い髪だった。そこは赤い髪と白い髪しかない世界だったから」
 「この国じゃないんだ」
 「金魚だよ」
 「あ、そうか」

 「これは例え話です」と言っているような彼女の目が、また家に向かう道に戻り、下駄の音と一緒に遠くなっていく。俺は頭をかきながら後を追いかけた。

 「いつもいつも女は心配してたの。他人から『男が周りと違うお前に飽きたら捨てられるよ』って言われたから」

 話を続ける彼女の後ろで、俺はタバコに火をつけた。彼女はタバコが嫌いなのだが、今なら大丈夫だろうと思って取り出したのだ。火をつけたその瞬間に、彼女の声が近づいてきた。

 「デートの後でも泣き、その後も、毎日毎日泣いたのよ。そして周りは『捨てられるのはもうすぐよ。もうすぐよ。』と決まったように繰り返したの。それでもっと怖くなった彼女はまた泣いて、泣いた果てに……」

 —ポン。

 「—ポン。と目が突き出ちゃった」

 くわえたばかりのタバコは彼女の指先のリズムに合わせて河の中に沈んでしまった。
 「……なるほど」
 なるほど。と思った。

 黒い髪のその女は不安で、それがたまらなくて、毎日涙でその不安を洗い流そうとしていたのかもしれない。周りは、自分たちとは違う色の髪をもつ女が男を愛する姿に嫉妬して、不安な女を慰める言葉や、親切にみせかけた悪意で、刀のように女の心を傷つけていたのだ。傷ついた女の心からは、また不安が生まれ、その不安がまた涙を流させたのだ。

 だから、女は男と逢うたびに泣く。今日のさよならが不安で不安でたまらないから。でも、そのわけが分からない男にはそれが腹立たしく感じられることもある。すると男が機嫌を損ねる。だから女はもっと別れを恐れる。不安になる。

 「でも」と、俺は言った。
 「余計なことばっかり心配するから罰を受けたんだ」
 「そう思う?」
 「俺ならそんな心配で泣いたりなんかしない」
 「どうして?」
 「大切な人が、自分が泣くのを望まないと知っているからさ」
 「うん」
 彼女がニコッ、と笑った。

 「うん。だから、女は男に『もう泣かない』と約束したの。男はその目を元に戻す方法を探しに行くと言って、女の前から消えてしまった。そしてまだ帰ってこないから、目はそのまま」

 彼女が俺の目の前に突きつけた金魚と目が合って、俺はビビッと後ろに退いた。笑いながら彼女は、またその袋の中の金魚とにらめっこし始め、しばらくそのままじっと瞬きもせずに金魚を見つめていた。そして少しして、彼女は口を開いた。

 「目を閉じたら男を見失うかもしれないから、彼女は瞬きをしないことにしたの。涙を流す姿を見せたくないから今まで流した涙の中で生きようと決めて」

 風が吹いた。
 いつの間にか、彼女の髪にあった花のピンもなくなって、ただ彼女の長い髪だけが風にゆれていた。

 「探しにいくなんて嘘ついて、女を捨てんじゃねえの?その男」
 「そんなところかもしれない、彼女ももう分かってるかもしれない。でもね」
 「……」
 「まだ」

 彼女の視線が川で止まった。

 「待っているのよ、きっと」

 川に向かって、彼女はビニール袋を持っている腕を振り上げた。俺がすくった金魚が、川に沈む小さな音が聞こえた。

 遠くなる彼女の足音を追いかけるまえに、俺は川を見た。
 川の中で揺れる何かが、まるで涙を流す彼女…金魚…の長い黒髪に見えた。

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